ヤークトティーガー作成資料
本資料は2009年2月からの初期生産型のヤークトティーガーを作成にあたり収集・整理した資料です。
資料収集の主旨は、

1. ヤークトティーガーの開発経緯
2. 試作・量産における構造
3. 試作車の構造と変遷
4. 部隊配備

となり、これらの情報を収集整理することで、史実の視点から荒唐無稽な設定の車両を作ることを回避すると同時に、作成過程の個々の作業に対して意味付けを 行うことを意図しています。


1. ヤークトティーガーの開発経緯

ヤークトティーガーは形状という点においては固定戦闘室を持つ他の駆逐戦車と類似しているが、その目的・開発経緯は大きくことなっている。
大戦時のドイツ軍は戦車型として設計された車体から様々な用途の派生車両を生産したが、そのどれもが車体の開発段階で意図されたものではなく、戦局の変化 に合わせて進化したものであった。
これに対し、ヤークトティーガーはシャーシの原形となるティーガーIIの車体開発段階よりコンポーネントを共通化する構想が盛り込まれており、1944年1月より ティーガーIIの量産車は生産を開始したのに対し、ヤークトティーガーの試作車両は1944年2月には完成している。
コンポーネントの共通化という構想は、大戦末期にペーパープランで終ったEシリーズにも見られることから、ヤークトティーガーの開発成功が この構想を実証した最初のケースとなり、以後の計画に繋がっていると考えることもできると思われる。

2. 試作・初期生産における構造

試作・初期生産段階における構造上の特徴としては、走行装置が2種類用意されていた点である。
これはティーガーIの開発時と同様にヘンシェル方式とポルシェ方式とがあり、試作の1号車はポルシェ式、2号車はヘンシェル式で作成された。(1944年 2月)。
この2輌により本格的な比較実験が行われたところポルシェ式には欠陥が発見されたため、ポルシェ式で生産された試作3号車では改修を加えたが 欠陥の解決には至らず、ヘンシェル式が正式採用されることとなる。しかし、ヘンシェル式の車両が生産される様になったのは1944年9月以降であり、 それまでに生産された10輌(試作を含む)はポルシェ式の走行装置で生産された。

ポルシェ方式走行装置装備型 ヘンシェル方式走行装置装備型
*写真はクリックで拡大表示


ヤークトティーガーの方式別生産数・生産時期
方式/生産年月 1944 1945 総生 産数
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 1 2 3 4
試作(ポルシェ方式) 2輌
試作(ヘンシェル方式) 1輌
量産仕様(ポルシェ方式) 8輌
量産仕様(ヘンシェル方式) 64輌
ポルシェ式総生産数 1 1 3 3 2 10輌
ヘンシェル式総生産数 1 6 9 6 20 10 13 3 4 72輌

一部該当
全台該当


3. 試作車の構造と変遷

ヤークトティーガーの試作車両は構造的には量産型とほぼ同じであるため、1輌目から数えて何処までを試作車両と呼称するべきかは意外と難しい問題である。
一般的には1〜3号車は試作車両、4〜5号車は訓練用車両、6号車以降が量産型とされているが、1〜2号車は改修後に実戦配備されていたり、 11号車まで(2号車を除く)はポルシェ方式走行装置装備型であったりと仕様が錯綜している。

初期生産車の違いは以下の表となる。

No.走行装置ツィメリット主砲
支持架
対空
機銃架
排気管
カバー
アンテナ
取付穴
予備履帯
ラック
防盾備考
1号車ポルシェ×××××初期型試験後に当時の量産仕様に則って改修され実戦配備される。
2号車ヘンシェル×××××初期型試験後に当時の量産仕様に則って改修され実戦配備される。
3号車ポルシェ*2×××初期型ポルシェ式走行装置の改修版。エレファント用の履帯・起動輪を装備するが問題が解消されず、ポルシェ式不採用の決定となる。
4号車ポルシェ×××量産型訓練用として使用。
後に無傷でイギリス軍に鹵獲される。
5号車ポルシェ×××量産型
6号車ポルシェ××量産型
7号車ポルシェ××量産型
8号車ポルシェ××量産型
9号車ポルシェ××量産型
10号車ポルシェ×量産型
11号車ポルシェ×量産型
12号車ヘンシェル×量産型
装備
不明
×未装備




4. 部隊配備

ヤークトティーガーは生産数が少なかったという事情もあり、正式に実戦配備された部隊はは第653重駆逐戦車大隊、第512重戦車大隊の2個大隊のみとなる。 これらの他に、試験用の車両や輸送の問題などにより他の部隊により運用された車輌が若干存在した。

◆第653重駆逐戦車大隊
アルデンヌ攻勢に参加。この際に3輌のヤークトティーガーを使用している。

◆第512重戦車大隊
25輌のヤークトティーガーを配備され、ルール地方の防衛に投入された。(詳細は後述)

◆クンマースドルフ戦車中隊
試作4号車を装備したが、ゼンネラーガー近郊の森の中でアメリカ軍に無傷で鹵獲される。

◆SS第501重戦車大隊
本来は第512重戦車大隊第3中隊に配備されるはずであった2輌のヤークトティーガーは、輸送中の空襲で損傷したため工場に戻され、 その後、SS第501重戦車大隊が使用したとされている。


付録. 第512重戦車大隊の戦歴


第512重戦車大隊は25輌のヤークトティーガーを受領し、3個中隊を編成してルール地方の防衛に投入された。

第1中隊は3月13日にヤークトティーガー10輌を受領した後、3月27日にジーゲンにて撤退してきた第2中隊と合流。 翌28日にいはディレンブルクへの攻撃に参加するが、この攻勢も失敗に終わり、4輌のヤークトティーガーが失われた。
その後、オペル - アルテナ - ハーゲンを経由してエルグステ地区へ到着。稼動できる4輌のヤークトティーガーと残余の兵力を率いてウンナ方面への攻撃を行う。 この戦闘において50輌程度のアメリカ軍の車両を撃破するが、航空攻撃によりヤークトティーガー1輌を含む損害を受けてヘーメルへ撤退した。
4月13日にヘーメルの無血開城に応じ、残余の兵力を率いてイゼーローンへ撤退。 同地にてアメリカ軍と交戦して損害を与えるが、4月16日にはイゼーローンにて降伏して武装解除された。

第2中隊は3月7日までにヤークトティーガー10輌を受領し、他の中隊に先発して3月24日にはレマーゲン橋頭堡への攻撃に参加するが、攻勢は失敗に終わる。 作戦に参加した車両の内2輌が撤退中に失われ、残余はジーゲンへ後退して一時的に第1中隊と合流した。この時点での稼動戦車数は6輌であったとされ、2輌喪失、2輌修理中であったと思われる。
その後、第2中隊は7輌のヤークトティーガーを率いてウンナ地区へ移動。アメリカ軍と交戦して4月9日には同地域を奪還。更に南下して来るアメリカ軍を迎撃し、攻勢を防ぐことに成功する。 しかし、市街地への戦火拡大を防ぐためアメリカ軍と交渉して同地を明け渡し、4月12日にはエルグステ地区へ後退して第1中隊と合流した。
その後、残余の6輌のヤークトティーガーを処分して、アメリカ軍に降伏した。

第3中隊は3月25日にヤークトティーガー5輌を受領し、4月1日には接近するアメリカ軍の迎撃に出撃。 この戦闘では2輌のヤークトティーガーが故障で各坐したため処分され、更に4月8日の戦闘において1輌を喪失した。
残る2輌はオステローデまで自走して同地にてアメリカ軍と交戦するも、4月11日、4月14日に相次いで撃破され、4月22日に降伏した。

第512重戦車大隊は3個中隊(数量的には2個中隊半)25輌のヤークトティーガーを運用したが、 3月24日〜4月15日の約10日間で合計150輌以上のアメリカ軍車両を撃破したとされている。
各中隊におけるヤークトティーガーの損害状況は下記の表の様になっており、戦果と損失を比較することで、 この重駆逐戦車の性能と限界が明確に現れているように思われる。

配備数全損処分(故障)処分(降伏)不明生存
第1中隊1050023
第2中隊1012610
第3中隊532000
合計2594633




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