今年度も残す所あと僅かとなりましたが本年度の締めと来年度への仕込みで多忙を極めており、模型には時間を割けない状況が続いています。

通常業務の他に、組織的事情により年度内に技術者資格試験を受けておかないといけないということもあり、今月は完全に手一杯な状態となってしまいました。

 

IBG ModelsのIV号D型(TP)を元にE型を作成中です。車体側面の増加装甲の再現まで進みましたが、外装には手を入れる箇所がかなり多いことから時間が掛かりそうです。

The World at WarのIV号戦車シリーズは素体としての出来も良かったことから、D型派生車両のベースに使うために追加で手配していましたが、なかなか納品されませんでした。発注から納品までに2ヶ月余りかかりましたので、納期から推察するに製造元のポーランドまで発注していたのかも知れません。

半ば勢いで3個購入しましたが、D型初期(欧州戦線)、D型架橋戦車、E型を作るつもりでした。E型は先に手に入ったキットで始めてしまいましたので、余る一つは何を作るか考えようと思います。

 

2021年3月11日が過ぎ、東日本大震災から10年が過ぎました。

10年の時間が過ぎることをこれほど短く感じたことはありませんので、やはりあの時の体験は強く印象に残る特別なものであったと思います。現在は武漢肺炎の流行に伴う非常事態ではありますが、こと我が国に限って言えば、犠牲者の数だけで比べると東日本大震災の22,000名余、武漢肺炎は8,500名余となり、災禍の大きさでは半分にも達していません。(我が国が比較的冷静でいられる理由かも知れません)

worldmeterの統計では世界的には武漢肺炎により266万余が犠牲となっています。アメリカ合衆国単体で見ると546,000名が亡くなっており、これは第二次世界大戦における同国の死者数(418,500名)を超えている状況です。

 

東日本大震災における被害は地震そのものではなく、地震に伴う津波と避難指示の不作為による人災の側面が強いと思われます。当時の状況が正確に記録されておらず、また当事者による積極的な改竄もみられることから今なお正確な状況が不明瞭であり、これは責任者が責任を取らない風潮と事実を記録として残すことの軽視という我が国が以前より抱える問題が吹き出した結果であったのかと感じます。

10年の節目ということで、当時の状況について個人的な記憶を書き残して置きたいと思います。

 

2011/3/11 14:00

2011年3月11日 金曜日 午後14時過ぎには、当時の仕事の関係から汐留にある某高層オフィスビルの5階にて4~5名で打ち合わせをしていました。

大きい揺れが二回来ましたが、どちらもビルの防災アナウンスが揺れの直前に出ていましたので、突然の地震に驚くというよりは体験したことの無い大きな揺れに驚きました。打ち合わせメンバーは示し合わせた様に打合せ卓の下に潜り込み、卓の脚をしっかり握って揺れに耐えたことを記憶しています。

2回の揺れが収まった後、停電や落下物などの目に見える被害がなかったため、打ち合わせの残りの議題を片付けてから状況の整理と対策に着手しました。居室には被害がありませんでしたが、周辺の免震構造を持つビルが大きく揺れていることが目視でき、ビルの高層階同士がぶつかるのでは無いかと思われるくらいの振れ幅であったことを覚えています。

後に聞いた話では、居室のあった建屋は高層階で天井のパネルが落ちる被害が出たそうですが、直近での最大の被害はエレベータが全て停止したことでした。幸いにして居室が5階であったことから高層階ほど酷くはありませんでしたが、徒歩で上下移動を強いられる状況となりました。

 

2011/3/11 15:00

居室の隣は24時間体制の運用センターが設置されていましたので、そちらの従業員が帰宅困難化することが想定されました。多人数が居室で宿泊する事態が想定されましたので、とりあえず食料だけは調達しようと1階にあるコンビニまで行きカップ麺を人数分確保しました。発災から1時間は経っていなかったと思いますがコンビニの棚からは食料品が減ってきており、皆考えることをは同じなんだと思いました。

電車は全て停止して移動することはできず当面出来ることも無くなったため、買い出し後に1階へ移動してスタバでお茶を飲んでから居室に戻りました。

 

2011/3/11 16:00

ラジオだったか携帯のワンセグだったかは覚えていませんが、この時点で福島第一原子力発電所で問題が発生しているという情報は既に得られていました。当時から電源喪失という話は出ており、主観時間で16:20頃に、政府より原子力非常事態宣言が発令されたと聞いた記憶があります。

時系列は定かではありませんが、この頃に津波による被害の映像を見たような気もします。津波は15時半頃には沿岸部に到達していた様ですので、事実関係として大きくは乖離していないと思います。また、居室の隣にある運用センターは日本全国がカバー範囲であったことから、東北沿岸部からの通信が途絶えているという情報も得ていた記憶があります。

 

2011/3/11 19:00頃

16時以降何をしていたのかを覚えていませんが、電話は輻輳して通じないためインターネットを使って家族・実家・兄弟の安否確認は出来ていました。また、自宅のサーバからは正常に応答が返ってきていたことから、急いで帰宅する必要性は無いと判断してオフィスに宿泊する前提で過ごしていました。

しかし、妻から今日中に帰宅したいと強く要望されて、どうしたものかと悩んだ覚えがあります。結局、妻の職場(市ヶ谷)まで迎えに行き、帰宅することになりました。山手線の沿線沿いに汐留(新橋)から有楽町まで徒歩で移動した後、運転を再開していた有楽町線で市ヶ谷まで移動して妻と合流、その後は徒歩で新宿まで移動して山手線の圏内を出たあたりでタクシーを捕まえることが出来ましたので、自宅まではタクシー移動となりました。

タクシーの運転手から聞いた話では、地震直前に緊急地震速報が流れたため自動車は皆整然と停車させ、衝突事故などの二次災害は発生しなかったとのことでした。

自宅は予想どおり問題が無い状態で、積み上げていた軽いものが落ちたくらいの被害で物損はありませんでした。テレビやモニタなどの重心が高いものが転倒していることを想定していましたが、重量物はむしろ安全ということが印象に残りました。

 

2011/3/12~3/13

週末の土日ということで自宅で過ごしました。当初はテレビの報道を見ていましたが、福島第一原子力発電所の事故についてひたすら危機を煽るような報道に食傷気味となり、必要な情報も流れないことから消してしまったことを覚えています。

情報はネットで指向性を付けて集める方向に変化し、友人とも情報交換をしていたことを記憶しています。当時は原子力発電の仕組みを理解していませんでしたで友人に「チェルノブイリの様な事態はありうるか?」という質問をした所、そもそも構造が全然違うのでありえないという解答を得ていたことを覚えています。彼の発言を契機に原子力発電所の構造に関する情報収集を行い、結果的に軽水炉型の原子力発電所は単なる湯沸かし器ということを知りました。(黒鉛炉であるチェルノブイリと同じになる訳が無いことを理解しました)

妻の実家は西日本であるため、一時は関東からの離脱と西日本への避難を想定したシミュレーションを行いましたが、意外と経路が少ないことを知り愕然としたのも覚えています。

また、この週末の段階で初期対応における政治側の不作為に関する情報は流れており、後々考えるとこの時点の方がリアルタイムに近い状態で情報が出ていた(翌週頃からは、むしろ情報が出なくなった)と思います。この時点で聞いていた情報では、関西出張していた東電社長が電源車と伴って自衛隊機で戻ろうとした(途中まで飛んだ)にも関わらず防衛大臣が引き返させた、福島第一原子力発電所に到着した電源車の規格が合わず使えなかった、無謀にも首相が福島第一原子力発電所を視察した、日本海側の経路で物資輸送を行おうとしたら政府が許可しなかった(現場が独断で進めた)などであったと記憶しています。

後年になって思い起こすと、事態が発生した直後は情報統制が効かず、むしろ現場の情報が生のまま出てくるのでは無いかと思います。この様な事態が発生した際には、発生直後の情報にこそ事実があるのかもしれません。

 

2011/3/14~3/16

月曜日(3/14)からは普通に出社しました。交通機関は復旧していましたが、計画停電の話題でもちきりであったことを覚えています。結果的には東京23区内は計画停電の影響をほぼ受けませんでしたので、これに対して何か対応をしたということはありませんでした。(サーバを最小限まで止めて節電した記憶はあります)

この間に福島第一原子力発電所での水素爆発などが発生しましたが、事前に情報を集めていたことからパニックになることは避けられました。水素爆発は直後から映像が流れていましたが、周辺の人達も全体的に静観していた様に感じました。

漠然とした不安を感じていた中、3月16日に天皇陛下からのビデオメッセージが配信され、結果としてこれを境に落ち着きを取り戻して行った様に記憶しています。(これ以後、大きな事態が発生しなかったことも大きいと思います)

 

以上が、10年過ぎた今の時点で覚えている当時の経験となります。